イギリスの古典的名作小説『高慢と偏見』を、原文を大部分残したまま改変してゾンビものにする、というかなり気の違ったパロディ小説である。ちなみに映画の公開も決まっている。
読んだところの正直な感想としては「試みの面白さは伝わるし実際面白いけど、原典読んでないから本当の凄みがわからない」、という不勉強で勝手な感想になってしまった。原典読もうかとも思ったが、揺れ動く姉妹の心情とか、どちらかと言えば苦手分野なのです。
パロディ作品の紹介として、「原作を知らなくても」という惹句は有効だ。というか、原典を知らなくては楽しめない作品は、それだけでかなり大きな弱点を背負っている、と考えていいだろう。そもそも作品を観る人が限られているというのに、さらにそこにハードルを設けてどうするのだ。篩を二重に、いや二乗に自ら科している。それはもう失敗と言っていい。
だから殆どの成功しているパロディ作品は、原作を前提としていない。むしろパロディと知らずに手に取り、そこから原典に遡る楽しみ方が用意されている作品が、良いパロディと呼べるのだろう。恥ずかしながらおれも、筒井康隆の『日本以外全部沈没』を読んで初めて、小松左京を知ったし、『ハッチポッチステーション』でクイーンを、キッスを知ったりした。
しかし。
『高慢と偏見とゾンビ』でも思ったけど、そして今までの色んなパロディ作品で思うのだけど。
面白かった。けど、もし原作を知っていたらもっと面白かったんじゃないか。
この「もし」、これがどうしたってついて回る。読後感に混じる一抹の後悔。いや、きっと本当に面白さは減じていないのだろう。たとえ予習してたって作品のオマージュやモチーフをすべて拾うなんて不可能だ。だから、この「もし」は無視すればいいやつの筈だ。
でも、拭えない。自分は作品を完全な状態で楽しめなかったんじゃないか。楽しんだからこそ、「完全な」というところに拘ってしまう。
もしかすると、パロディ作品にとってこの「もし」こそ最大の構造的欠陥ではないだろうか。そんなことを考えながら、全力でパロディとオマージュに溢れた作品を作っている。
もちろん、「原作を知らなくても」、である。しかし、なのである。